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      西国第十五番札所 新那智山 今熊野観音寺 (しんなちさん いまくまのかんのんじ)

         本  尊 : 十一面観世音菩薩          真  言 : おん まかきゃろにきゃ そわか
         秘  仏 :
         開  基 : 弘法大師          開  創 : 天長年間(824〜834)
         宗  派 : 真言宗泉涌寺派
         御詠歌 : 「昔より 立つとも知らぬ 今熊野 ほとけの誓い あらたなりけり」





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納経帳 (大悲殿)   カラー御影
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参道途中の朱塗りの「鳥居橋」 と 「今熊野観音寺」と刻まれた石柱
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「子護大師像」の周りには砂が敷き詰められ 『南無大師遍照金剛と唱えながら四国八十八箇所のお砂を踏んでお大師様を廻って下さい』とある。
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「本堂」は正徳2年(1712年)に宗恕祖元律師によって建立された。           
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「五智の井」 この五智水は鐘楼の南側の山際にある。
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太平洋戦争のときに供出されたが無事に戻った梵鐘
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多宝塔 「医聖堂」 と呼ばれ、医学に貢献した人々を祀っている。
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「大師堂」では護摩の修法が行われ、修行僧の修行道場として使用。
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■ 略縁起・歴史・由来

  平安の昔、弘法大師空海上人が唐の国から帰国されてほどなくの頃、東寺において真言密教の秘法を修法されていたとき、東山の山中に光明がさし瑞雲棚引いているのを見られました。
  不思議に思われてその方へ慕い行かれると、その山中に白髪の一老翁が姿を現わされ
  「この山に一寸八分の観世音がましますが、これは天照大神の御作で、衆生済度のために、この地に来現されたのである。 ここに一宇を構えて、観世音をまつり、末世の衆生を利益し救済されよ。」

  と語りかけられ、またそのときに一寸八分の十一面観世音菩薩像と、一夥の宝印を大師に与えられました。
  この時に老翁が立ち去ろうとされたので何びとかをたずねると、「自分は熊野の権現で、永くこの地の守護神になるであろう。」と告げられて姿を消されました。
  大師は熊野権現のお告げのままに一堂を建立され、みずから一尺八寸の十一面観世音菩薩像を刻まれ、授かった一寸八分の像を体内仏として納め、奉安されたのが当山のはじまりです。
  京都東山三十六峰のひとつ月輪山の麓は、今熊野と呼ばれています。現在、この観音寺は泉涌寺の塔頭ですが、応仁の乱以前は月輪山一帯が境内となるほど栄えた大寺でした。

  後白河法皇は本尊を深く信仰し、霊験により持病の頭痛が平癒したので、本寺に「新那智山・今熊野」の名称を与えられ、以来、頭痛、中風、厄除けの観音として繁栄してきました。
  御詠歌にもあるように、観音さまが私たちの知らない間に枕元に立たれて、ご霊験をくださる。昔から頭にまつわる信仰の多い観音さまです。

  ●「五智の井
    弘法大師が、観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぶために錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。
  ●「大師堂」
    東山大師と呼び親しまれお詣りがたえません。、お堂の前に立たれているのは、「ぼけ封じ観音」、その台座の近くには、「お身代わり石仏」がお祀りされています。
  ●「熊野権現社」 「稲荷社」
    ともに、弘法大師との由緒も深く、この地の守り神として厚く祀られています。
  ●「今熊野西国霊場」
    奥の参道には、西国三十三霊場の各ご本尊を石仏として奉安する今熊野西国霊場がしつらえています。
  ●「鳥戸野陵」 (とりべののみささぎ)
    境内の北隣には、一条天皇の皇后(藤原定子)が鎮まる陵があります。
    その華やかな高級文化と悲運の生涯は、今も多くの心を引き付け参拝者も少なくありません。定子に仕えた清少納言もこの地に縁が深く観音寺の近くで晩年を過ごしたそうです。
    清少納言も、観音寺のお本尊に仕えた藤原定子の菩提を弔うために、観音さまに手を合わせたのではないかと今も想いを馳せている。
  ●「藤原三代の供養塔」
    境内には、藤原三代の供養塔が佇みます。藤原家とのゆかりも深いとされています。


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 ■ 御本尊御前立 十一面観世音菩薩
   私たちの願いを聞く為に、少し前かがみで右手をこちらに差し伸べられた立ち姿。
   柔らかな表情のお顔、美しい冠やボリュウム感ある衣の表現等等、拝観するだけで心が落ち着いてくるとても有難いお姿。
   御本尊がおられる厨子の御前に神鏡が置かれているのも神仏を等しく敬うこのお寺ならではといえそうです。

 ■ 「今熊野」 由緒
   昔、東山観音寺といわれました。
   後白河法皇は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社、熊野三山を非常に信仰されていました。
   その熊野をお詣りされる前には、必ず観音寺の山麓に一週間ほど籠って精進潔斎(しょうじんけっさい)をされていました。
   後に、病弱な後白河法皇は、この観音寺に熊野権現を勧請(かんじょう)いたしました。
   そして、熊野の地に行けない時には、この観音寺が熊野に行ったかわりとしてお詣りされました。

 ■ 「観音会法要」  毎月十八日




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